ツーソンは砂漠の中に出来た街だ。
そして空軍基地がある街で有名である。 だから、民間の飛行場(マラナリージョナル空港)とは別に 空軍の飛行場(デビスモンサン空軍基地)がある。 このジュエリー・ミネラルショーに初めて来た時。 会場から会場へレンタカーで移動時に、まさに空軍基地を見つけた。 そのとてつもない広さと戦闘機の数に一瞬われを忘れて見入ってしまった。 現れた視界を全て埋め尽くす戦闘機、数え始めても数え切れない。 500機はゆうにあっただろう。 その時直感的に「なんでこんな国と日本は戦争をしたのか」という怒りが頭をよぎったことを思い出す。 後でその殆どが現役を退いた戦闘機だと知らされて改めてアメリカのすごさを痛感した。 しかし、こんな鮮烈な体験も、先日の思いがけない訪問までほとんど忘れていた。 今回、先に来ていた友人の誘いで、空軍の博物館である「ピマ航空宇宙博物館」を初めて見学することが出来た。 最初に入った館の中は、平日のためか見学の人はまばらだった。 次の館に入った時、真っ先に目に飛び込んできたのは、 まさに亡き祖母から幾度となく聞かされた空襲の恐怖の代名詞B29だった。 真近に見るB29は私が想像していた以上の巨体だった。 (良く知られているボーイング727-100と全長においては10メートルほど短いが翼の長さ(全幅)は逆に10メートルほど長い) そのB29の機体の腹の弾倉の扉が開いていた。 機体の下から、弾倉を見上げると一つだけだが、あの焼夷弾を抱いていた。 弾倉は二つに別れて、数えるとこの焼夷弾を38個搭載できるようになっていた。 この焼夷弾はクラスター焼夷弾だ、一発の焼夷弾が空中で内蔵した48個の小型焼夷弾を散弾させる。 38×48は1824個の焼夷弾が一機のB29から投下されるのだ。 この恐ろしいB29爆撃機が66年前(昭和20年3月13日)大阪を空襲した。 その数、274機だったといわれる。無差別爆撃だった。 二日にわたる来襲で大阪は一面の焼け野原となった。 私の祖母の家もこの時目の前で焼け落ちた…と何度聞かされたことだろう。 そのB29の周りには何人かの見学者がボランティアの年老いた学芸員の説明に聞き入っていた。 その老人の誇らしげな態度を見てまた複雑な気持ちが私の心によぎった。 その館を出る時、振り向くと、そのB29の機体の傍に日本空軍の精鋭戦闘機だった「隼」が一機展示されていたのがどうしてもさびしく見えた。 博物館を出ると西の空は茜色の夕焼けで山が染まっていた。 改めて、今の平和をかみ締めていた。 ← ← ← ランキングにご協力を♪ ← ← ← 教室ブログのランキングです♪ 金プラチナ買取、ダイヤモンド買取、天然石アクセサリーならしかん香
by shikanko
| 2011-03-04 14:20
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